蓮如上人


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 蓮如上人は1415年(応永22年)、存如上人(本願寺第7代)の長男として、京都・東山大谷の地でお生まれになりました。当時の本願寺は参詣の人も少なく、さびれた状況でした。6歳の時、母と生別。別れるにあたって母は「親鸞聖人の念仏の教えを伝え弘めてください」と言い残されました。17歳の時、青蓮院で得度。上人は親鸞聖人の著書『教行信証』などをとおして求道とべっbがくに励まれました。
 43歳の時、父・存如が亡くなり本願寺第8代を継承。その後、蓮如上人は近畿・北陸・東海などの地域で教化活動をして、念仏者を次々と生み出していかれます。51歳の1465年(寛正6年)、本願寺が栄えていくいことを妬んだ比叡山延暦寺の宗徒らによって、大谷本願寺が破却されます。
蓮如上人は近江の堅田・金森の地を転々とされ、湖西路をを通り、57歳の1471年(文明3年)、越前吉崎に坊舎を建立されます。活気にあふれるこの地で、親鸞聖人の教えをわかりやすく手紙の形式でつづった『御文』によって民衆を教化。さらに『正信偈』『和讃』を開板し、現在の真宗門徒の日々のお勤めの作法のもととなるかたちを定められました。
 4年後吉崎から大阪河内出口、京都山科へと移り、66歳の1480年(文明12年)には山科本願寺御影堂を完成されました。75歳で後継を実如に譲り、83歳の時には大阪石山坊舎を建立。1499年(明応8年)3月25日、蓮如上人は山科本願寺で真宗再興に尽くした85年の生涯を終えられました。

浄立寺宝物
 左・蓮如上人直筆「南無阿弥陀仏」名号
 中・「阿弥陀如来立像」絵像
 右・蓮如上人裏書「方便法身尊形」

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